The World Abetted Assad’s Victory in Syria

久しぶりのブログの更新になります。シリアの情勢を綺麗にまとめた記事がありましたので、そちらを意訳できればと思います。拙い英語力なので、原文が読める方はぜひそちらに目を通していただければ幸いです。

https://www.theatlantic.com/international/archive/2018/08/assad-victory-syria/566522

7年以上にわたる内戦によりシリアの人口の半分が家を捨て、町は瓦礫となり、50万人以上の人々が命を落とした。そして今、バッシャール・アサド大統領の勝利は目前に迫っている。7月にアサド政権はシリア南部の都市、ダラーを奪還し、制圧した。ダラーは2011年の民衆蜂起が発生するきっかけを作った反体制派にとっては象徴的な革命都市だった。

アサド政権が勝利目前と書き記したが、実際は異なる。戦争が終息するにはまだ先は長い。アサド政権がシリア全土を統一したわけではない。クルド人が主に支配権を確立しているシリア北東部、そして唯一の反体制派が拠点としているイドリブ県が残されている。民衆蜂起直後、数カ月以内にアサド政権は崩壊するだろうと予測した西側諸国の思惑とは裏腹にアサド大統領は7年以上が経過した今も権力の座に留まっている。

それはなぜだろうか。幾人かの識者はアラブの春で崩壊する独裁政権を見て、アサド政権の崩壊も間近だろうと楽観視していた。国内外からアサド政権への締め付けは厳しく、ある程度の効果はもたらしたが、権力の座から引きずり下ろすには力不足だった。アサド政権の暴力行為は、外から押さえつけられるほど甘くはなかった。

シリアの統治システムは戦争と反体制派の抵抗に対処するには最適だった。治安部門は忠誠心を保たれ、アサド大統領をクーデターで追い落とす可能性はなかった。しかし、個々での兵士は多数が離反し、4年の間で325000の兵士は125000まで落ち込んだ。しかし、離反兵の多くが戦うことなく逃げ出し、反体制派の戦闘員は50000程度を数えるだけだった。幾人かの重要な立場の人物も離反をしたが、実際にアサド政権の中枢を揺るがすほどの力はなかった。治安、軍、産業を指揮する要職に就いている人間は誰もがアサド大統領に従った。

ハーフィズから引き継がれた治安維持は親衛隊で固められ、彼らは大統領と同じ宗派、シリアの人口の10パーセント足らずのアラウィー派で占められた。アサド大統領は彼らを優遇することで忠誠心を維持していた。アサド大統領と運命を共にするほど固い絆で結ばれているのは治安部門の責任者が絶対に裏切ることのない大統領の従兄弟を据えたことが大きかった。なぜアサド大統領は権力を維持できたのか。その一つが以上の理由からである。

二つ目はシリア人の心を一部では繋ぎとめていたことである。アラウィー派以外にも8パーセントのキリスト教徒、3パーセントのドルーズ派、彼らを宗派間抗争の火種に舞巻き込むことで、多数を占める反体制派のスンニ派勢力から遠ざけた。世俗的なスンニ派にはイスラム教の過激思想を煽ることで、中立的な立場を維持させた。さらに25パーセントの失業率への不満がデモに発展したことを知り、アサド政権は給料の未払いを恐れる労働者に職を提供し、給与の支払いも継続した。それは反体制派の地域で働く人々に対しても同様に行われた。中産階級にもアサド政権の政策から利益を出るように優遇されることで、彼らのアサド政権の忠誠心への衰退を遅らせることに成功した。

アサド政権を支持する人々の中には政権が垂れ流すプロパガンダを信じていた。つまり、民衆蜂起は外部から西側諸国の陰謀であるということである。他には政治が不安定になることを恐れている人々もいた。その不安を和らげるためにアサド大統領は「新しい憲法」の制定を打ち出したが、一方で反体制派は無意味だと譲歩を許さなかったが、これが安定を望む市民には重要な事柄だった。

三つ目は脅しである。この「恐怖の壁」を抗議デモは打ち崩したと一部の反体制派の支持者は主張した。しかし、それは希望的観測にすぎなかった。多くのシリア人はハーフィズがハマで行った殺戮、政権に楯突いた市民少なくとも10000人が殺害された、その記憶が生々しくこびりついている。2011年の民衆蜂起の弾圧はその記憶を呼び起こすような苛烈さだった。2011年7月までに8000人以上が拘束され、運よく釈放された者も国外へと逃亡した。

これらの理由から反体制派は結束が取れず、さらに内戦に陥る。アサド大統領が恐れていたのは平和的なデモだった。なぜなら独裁政権が崩壊するときそれは民主的な波に押し流されていたからだ。それがデモは徐々に武装闘争へと姿を変え、平和的なデモは失われ、反体制派も暴力を正当化する武装勢力へとなり下がった。さらにアサド政権は暴力を誘発する政策に打って出た。一度は捕らえた強硬派のイスラム教徒の指導者を野に放った、釈放したのである。これにより先鋭化した反体制派をアサド政権は「テロリスト」であると名指して、自らの攻撃を正当化し、世俗的な市民の不安を煽ることに成功した。

しかし、アサド政権はイスラム国などの過激派を野放しにし、あえて穏健派の反体制派の攻撃に着手した。そうすることで、穏健派の勢力を潰し、シリアでの残存勢力を過激派に絞ることで、外部の国々に、過激派を選ぶか、我々の政権であるアサド大統領を選ぶかという二者択一を迫った。

これらの政策に外部の加担は見られなかったが、西側諸国の制裁に加えて、反体制派肩入れする湾岸諸国にアサド政権は徐々に追い詰められていく。そこにロシアとイランがアサド大統領の背中を押した。政治、経済、軍事でアサド政権を後押しし、ロシアは安保理で12回の拒否権を行使、イランは46億ドルの資金をシリアに貸し付けた。軍事面でも2012年から2013年にかけてアサド政権が窮地に陥っている最中に武器の支援とアドバイザーの派遣、レバノンのシーア派組織のヒズボラをシリアに送り込んだのはイランである。ロシアは2015年に軍事介入し、アサド政権が息を吹き返したところで、イラン、トルコに加えて、アメリカも停戦を働きかけた。しかし、その停戦を破竹の勢いに乗るアサド政権が自ら破り捨て、2018年の夏にダラーを奪還した。

反体制派の政治組織はどうなのか。2012年11月に結成されたシリア国民連合があるが、構成されるメンバーにシリアのムスリム同胞団が含まれていた。トルコとカタールは同胞団への支援に好意的だったが、同胞団を嫌うサウジアラビアが別のメンバーに肩入れすることで、カタールとサウジアラビアの確執が浮き彫りになる。さらにアサド政権とのスタンスの違いからメンバー内での意見の相違もあり、初代ムアズ・ハティーブ議長は僅か5ケ月余りで辞任する事態となった。

国内でも反体制派はイデオロギーの違いから統合する以上に分裂が際立った。穏健派の統合は強硬派によって阻害され、一方、クルド人は徐々に勢力を拡大して、アサド政権と対峙する第三勢力として台頭するようになった。反体制派を支援しようとする周辺諸国の相違も問題視された。カタール、トルコ、サウジアラビア、それぞれが同じ組織を支援するのではなく、別々の組織へと手が差し伸べられた。そのため、統合を重要視するより先に支援の配分の取り合いとなり、反体制派は弱体化する。そのためイデオロギーを中心とした極端な思想に傾倒する戦闘員が増加した。

米国はCIAが監督する形で穏健な反体制派の支援に乗り出していた。しかし、武器の横流しや、訓練された戦闘員が強硬な反体制派組織に合流したり、戦闘員が捕らえられたり、成果は一切見られなかった。その結果、米国はアサド政権打倒より強硬な反体制派を潰すことを優先するようになる。2013年、アサド政権が化学兵器のサリンを使用した際、オバマ大統領は軍事介入の構えも見せたが、リビアのカダフィー政権が倒れた後の混乱、イラクへの軍事介入の失策などが尾を引き、最終的にはロシアが提案した化学兵器の破壊を条件に軍事介入を見送った。しかし、その後、イスラム国の台頭により、米国は空爆を開始するようになる。トランプ政権は化学兵器使用の疑いが明確になると、アサド政権に対して二度の空爆を行った。しかし、アサド政権を打倒する名目ではなく、オバマ大統領との違いを見せつけるパフォーマンスに終始した。

しかし、アサド政権の最近の勝利は真の勝利からは程遠い。国をかき乱し、灰燼と化したシリアの王として君臨しているように見える。テロの脅威は払拭できず、領土の三分の一ほどは反体制派とクルド人に押さえられている。さらに直近の課題として復興がある。経済は壊滅し、技術がある者も国を逃げ出した。最も信頼できる庇護者はロシアとイランだが、復興と引き換えに大きな影響力が両国によって及ぼされる。さらに長引く内戦によりアサド大統領のために犠牲を払った多数のシリア人の怒りを鎮める必要がある。

しかし、アサド大統領の強固な取り巻き、7年以上にわたる内戦を共にしてきた協力者を思えば、たとえ何十年とかかろうとも、これらの問題はいずれ解決しうると思われる。戦争とは生存競争であり、その意味ではアサド政権は勝ち抜いたのである。外国からの強固な援助により自らの国を無慈悲に破壊した皮肉も結局はアサド大統領の余命を伸ばすことにつながった。野蛮で非人道的だが、それは確かに機能した。これは他の独裁政権にとってぞっとするような教訓として映るだろう。