革命の都市ダーリヤー

英語表記だとDARAYA、DARAYYAと表示されていますが、アラビア語表記だとداريا 。実際に耳にすると、ダーリヤー、ダーリッヤーと聞こえるので、アラビア語表記で統一したいと思います。革命の都市と言えば、まっさきに思い浮かぶのがドゥーマです。ただダマスカスから最も近い革命の都市となると、ダーリヤーではないかと思います。そこが遂にアサド政権の手に落ちました。何年も包囲されながら、必死の抵抗を続けてきたのですが。。。

http://www.reuters.com/article/us-mideast-crisis-syria-daraya-idUSKCN11023Q

ダーリヤーはダマスカス中心部から僅か7キロ足らずの距離に位置する町です。2011年から抗議デモが頻繁に発生し、内戦に陥ってからは武装闘争が本格化しました。これまでダーリヤーでは数々の停戦合意がありましたが、今回は反体制派が降伏しました。この数週間、ダーリヤーは空爆の嵐でした。その結果を受けてのことでしょう。

避難する人々は5000人。その中に1000人の反体制派の戦闘員も含まれています。ただし、降伏とは言っても、両者による合意の下での撤退です。住民は別の地域への移動が許され、反体制派の戦闘員はシリア北部の戦線に移されます。この合意が履行されるかどうかは別として、ここまでアサド政権が譲歩したのは、やはりダーリヤー地区に隣接するメッゼ軍事空港から脅威を取り除きたかったのでしょう。

http://www.nytimes.com/2016/08/26/world/middleeast/daraya-syria-assad-surrender.html?ref=middleeast

NYTimesでは残されていた住民は8000人となっています。ダマスカス中心部から2マイルと表記されていますが、どこをダマスカスの中心部と考えるかによって距離は変わります。

1週間ほど前にダーリヤには焼夷弾が投下されました。しかも標的にされたのは町で唯一機能している病院です。医療設備が壊滅すれば、戦闘や空爆で負傷した人々を助けることは困難です。4年近くに渡る包囲下の中で、住民はアサド政権の横暴を国際社会に訴えかけました。しかし、最終的にはアサド政権に妥協を許す結果となりました。

過去には数百人の住民がこの地区でシャッビーハを含めた民兵と政府軍によって虐殺されています。2012年8月20日から25日にかけてです。正確な犠牲者数は定かではありませんが、400人から500人が殺害されました。Wikiでも報告されています。

https://en.wikipedia.org/wiki/Darayya_massacre

今回の合意は住民の命を救う最終的な手段でした。ある反体制派の戦闘員は答えています。「もしこのまま我々が戦闘を継続することになれば、彼ら(アサド政権とロシア、その他の民兵組織などなど)は住民を皆殺しにするだろう」。住民は安全はアサド政権の支配地域に移され、反体制派の戦闘員はイドリブ県に向かう予定です。

今回の合意が衝撃的なニュースだと受け止められているのは、やはりダーリヤーが革命の象徴的な都市だったからです。そこが陥落したとなれば、実際にダマスカスで抵抗を続けている反体制派にも精神的な苦痛を伴います。その一つにドゥーマがあります。仮にドゥーマがダーリヤーと同様の運命を辿れば、もはやダマスカスに敵ナシとなるでしょう。あるドゥーマの住民が今回の決定にコメントを出しています。

「悲しまないでくれ。あなた方はよくやった。あなた方の安全を心から願います。我々は無力なんだ。そして我々もあなた方と同じ道を辿るかもしれない」

https://www.theguardian.com/world/2016/aug/25/rebels-to-surrender-syrian-town-of-darayya-to-assads-forces

今回の決定を受けて、自由シリア軍の幹部は国際社会を痛烈に批判しています。「4年にもわたる包囲の中で、国際社会は何もしてくれなかった。国連は人道的支援を実行に移すことはできなかった」。

ダーリヤ出身の活動家にGhaith Matarがいます。彼は26歳で仕立て屋です。2011年の夏に町に侵攻してきた政府軍に彼はバラと水を差しだしました。非暴力、平和的な態度の表明で、シリア全土で大きな反響を呼びました。ただし、翌月の9月初旬、彼は喉を搔き切られ、遺体は損壊されて、発見されました。

ダーリヤーの戦況は毎日のように活動家や市民記者が報告していました。一度に5発、6発の樽爆弾が投下される映像や、破壊され粉々にされた廃墟、その中で「SOS」を求める住民の写真。国連がアサド政権に頭を下げて、支援物資を搬送させてくれと懇願する様子。よく4年も踏ん張ったのだと思います。ただその4年間で何百人、何千人という数の死傷者が生まれました。