Enough is enough

マイケル・イグナティエフとLeon Wieseltierによるオピニオンです。

https://www.washingtonpost.com/opinions/the-era-of-us-abdication-on-syria-must-end/2016/02/09/55226716-ce96-11e5-88cd-753e80cd29ad_story.html

アレッポでのロシアの空爆は多くの民間人を死傷し、数万人の人々を追い立てた。この巨大な街が包囲されれば、物資の供給も滞り、多数の住民が飢餓の恐怖にさらされるだろう。欧米のシリア政策が道徳的破綻をきたすのも時間の問題である。

実際に、道徳的破綻は長く続いている。シリアの大統領は退陣すべきだという5年に渡る空虚なスローガン、気乗りしない反体制派への武器支援、化学兵器の使用で超えたはずのレッドラインの有名無実化、西側諸国の互いの押し付け合いから生じた緊張の下での難民の不十分な対応。その結果、25万人の死者と700万人の国内避難民、500万人近くの難民を生み出した。難民のうち200万人は子供である。

アサド政権とその支援者、ヒズボラ、イラン、イラクのシーア派民兵がアレッポに迫りつつあるとき、これらの道徳的破綻が信じられないような可能性を示した。ロシア、シリア、イランがアレッポで反体制派の支配地域を破壊している最中、どれほどの人命が失われようとも、対イスラム国を掲げているアメリカはこれからも静観する姿勢を崩さないように思える。

アメリカの道徳的な立場に懸念を示す人々にとっては、この姿勢、政策は恥辱にまみれたものであることを理解している。もしアメリカとNATOがアレッポの住民を包囲して、飢餓を助長するような新しい恥ずべきパートナーの存在を許すならば、彼らも同じく戦争犯罪に加担していると言えるだろう。道徳的な誠実さが崩壊していることをアレッポの廃墟が彼らに気が付かせてくれるだろう。民間人への無差別な爆撃は和平協議をするに値しない違反を犯している。兵糧攻め、樽爆弾、それらが続く限り、アサド政権やプーチンの意図に耳を貸す必要はない。

アレッポの事態は急迫している。我々にはその状況に対して何かしらの行動ができる余力はあるのだろうか。シリアを救う手立てはまだ残されているように思える。アレッポは新たなサラエボ、新たなスレブラニツァ。ボスニアの紛争でサラエボ、スレブラニツァが辿った運命がシリア内戦でのアレッポの運命となるだろう。アメリカは奮起し、西側諸国と共に声を上げる必要がある。「もうたくさんだ!」。アメリカが政治的手腕を発揮して導かれたデイトン合意。これによりボスニアでの戦争は幕を閉じた。

世間一般の通念はシリアでは何の役にも立たないどころか、悪でさえある。アレッポでの虐殺を止める手段では、戦略と同様に道徳を正すことにある。NATO傘下でアメリカはアレッポからトルコとの国境まで飛行禁止空域を設置し、空爆による民間人の被害を抑えることを明確に示すことである。爆撃が止めば、輸送ルートも確保でき、国内避難民への支援も行える。

もしロシアとシリアが民間人の保護と輸送ルートを妨げることを求めるならば、彼らは軍事的な決まり事を侵害することに直面するだろう。シリア上空を使用するためにロシアとアメリカは互いに数時間おきにコンタクトをとっている。民間人の保護の妨げは大国同士の関係を悪化させる要因であることをロシアに認識させる必要がある。そのため行政は絶えずロシアのトップとコンタクトをとり続けることが求められる。アメリカと西側諸国の意図をロシアとシリアは理解するだろう。民間人を保護するための新しい力のある軍隊を形成し、実際に使用することをロシアとシリアが理解できればシリアの空域はもはや独断専行で使用できなくなる。非常に厳しい方法ではあるが、シリアの虐殺を止めるためには飛行禁止空域の設置は必要である。

21世紀、アメリカはこうあるべきである。至急の人道主義目的に関して世界のサポートを集めるために、軍事力と外交力を共に用い、戦略の大胆さと道徳の関与が求められる。もし我々がアレッポを救えないのであれば、我々ができ得ることを全てしないのであれば、永久にアレッポは我々の意識の中で汚点を残すことになるだろう。

以上です。意訳しながらも、誤訳、解釈違いの箇所があるかもしれません。とりあえず、アレッポからトルコに至る地帯に飛行禁止空域を設置しろってことですが、それは以前から言われており、時間の経過と共に難しくなっています。なぜなら内戦初期は空を飛ぶのはシリアの戦闘機だけでしたが、いまや大国のロシアとアメリカがぶんぶん飛んでいます。人道主義に際しての飛行禁止空域の設置なんてロシアに鼻で笑われて終わりだと思います。ただこの記事で指摘しているように今のアメリカはロシアで鼻で笑われるような存在だということです。