飢えに苦しむ人々ーさらに追加ー

マダーヤでの惨状がツイッターやフェイスブックを通して、世界に知れ渡り、状況が多少でも改善されたことは、大きな一歩だと僕は思います。すごく大きな一歩です。なぜなら、何年にも渡って、現在でも続いている惨状はマダーヤだけではありません。大半の地域が見捨てられている中でのマダーヤが救われたことは前進ではあります。果たして本当に救われたのかはまだまだ状況を見ない限り、分かりませんが。

http://www.nytimes.com/2016/01/15/world/middleeast/madaya-syria.html

Nisrineは包囲された町、マダーヤで教師をしていました。しかし、数週間前に教師を辞めざるを得ませんでした。なぜなら、学校に通えないほど子供たちが飢えに苦しみ、やせ衰えていたからです。病院では経口補水液を患者に与えるのがやっとで、雑草でスープを作り飢えを凌いでいました。

食料探しに向かえば、地雷を踏み、町からの脱出をはかればスナイパーに狙われる。マダーヤやダマスカス、ベイルートから数時間の距離に位置すれど、包囲網により外部の世界から寸断されました。「私はどこにも行けない」。飢えと心臓病を患う老女はベッドに横になりながら、泣きはらしました。

今週の木曜日、マダーヤに救援物資が届きました。今週で2度目になります。食料を途絶えさせる戦略は戦争犯罪である。国連のパン・ギムン事務総長は非難して、今すぐに包囲網を解くようにアサド政権に求めました。月曜日に限られた人々が退避しましたが、それでも援助隊はまだ急を要する数百人の住民が取り残されていると訴えています。

ユニセフの職員Hanaa Singerはマダーヤを訪れた際に6人の栄養失調の子供を抱えた母親に声を掛けられました。「私の17歳の息子は餓死しました。どうか、残りの子供たちを救ってください」。そう言って、この女性は彼女の肩にキスをして倒れ込みました。

マダーヤの現状は数カ月に及ぶ調査と最近の電話やインターネットによる数十人の住民へのインタビューによって浮き彫りにされました。

マダーヤとザバダーニは共にレバノンとの国境沿いにあるカラモン山麓の町です。2012年に反体制派が支配権を確立すると、徐々にその勢力は穏健派からアハラール・アッシャーム、ヌスラ戦線と呼ばれる強硬路線へと変化していきました。

アサド政権と共闘するヒズボラが去年の夏に数週間に渡り大攻勢を掛けましたが、それでも反体制派は崩れませんでした。それ以降、アサド政権とヒズボラはマダーヤ、ザバダーニ、両市を封鎖し始めました。その報復として、イドリブ県では反体制派がシーア派の居住区である二つの村を同じように包囲しました。

一部停戦の話も出ましたが、ロシアの軍事介入以降、負傷者や病人を退避させるという約束は反故にされ、包囲網はさらに強化されました。前述した教師のNisrineは10月のインタビューで答えています。「飢えている子供たちに勉強をしなさいなんて言えるわけがありません」。

麻酔医のMohammadは医療品の不足で病院が危機的な状況に陥っていました。一度、重い感染症にかかった16歳の少年を治療するため何とか町を出られないかとヒズボラの兵士に訴えかけました。「私たちは彼らの靴に口づけしました」。「私たちは降伏する用意があると言いました。でも包囲網が解かれることはありませんでした」。

新生児を失くした25歳の母親Rimaは「我が子に食事も温もりも与えられなかった」と静かに答えました。活動家のFirasは密かに持ち込んだ小麦を家々に配り歩きました。そこで彼はやせ衰えて骨と皮だけになった老人Suleiman Faresを見つけました。生きていることを願いましたが、既に飢えにより命を落としていました。Firasは思いました。「飢えで死ぬくらいなら戦って死んだ方がマシだ」と。

ビジネススクールの卒業生の27歳のHamoudiは父親に食事を与えようとしましたが、彼は我々のためにと受け付けませんでした。食料が不足し始めると、朝を抜き、夕方まで我慢しました。水やスパイス、ときには雑草で飢えを凌ぎました。そして冬が到来し、雑草もなくなりました。生きるためには何でも食う。仮にそれがイスラム教で禁止されている食べ物でも。「飢餓は不信心者そのものだ!」。

記事はまだまだ続きます。本当に読んでいると泣けてきます。現場からの声は悲痛です。食べるものがないということがどれほど恐ろしいことなのかも伝わります。だからこそ、その恐ろしさを住民に押し付けようとするアサド政権とヒズボラの仕打ちは戦争犯罪です。徐々に食べ物がマダーヤに今後も搬入されればいいのですが。